千玄室(15代目/裏千家)の年収や経歴は?妻や息子はいる?自宅や家系図がすごい…徹子

徹子の部屋

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日本一習っている人が多い茶道の「裏千家」。

その前の家元であった千玄室さんが、2023年4月27日放送の『徹子の部屋』(テレビ朝日)に出演されます。

100歳を超えても、国内外を飛び回り茶道普及に努め、1時間半を超える講演も立ったままお話しされるほどお元気な千玄室さん。

その力の源とは一体どこにあるのでしょうか?

今回は、千玄室さんにスポットを当て、経歴や年収、結婚、家族、ご自宅、家系図などについて調べていきますよ!

千玄室の経歴やプロフィールは?年収は?

参照:https://news.merumo.ne.jp

  • 名前:千玄室(せん げんしつ)
  • 本名(幼名):千正興(せん まさおき)
  • 生年月日:1923年4月19日
  • 年齢:100歳
  • 出身地:京都府
  • 学歴:同志社大学法経学部経済学科

千玄室さんは茶道「裏千家」の先代の家元です。

15代汎叟宗室、斎号は鵬雲斎で現在は大宗匠・千玄室と称しています。

裏千家の家元の長男として生まれた千玄室さん。

幼少期から将来の家元として、両親から厳しく躾けられて育ちました。

他のきょうだい達が学校が終われば好きなように遊んだりしているのに、自分だけはお稽古ばかりの日々。

そういったことに不満がありながらも、明治から昭和への激動の時代の中で、裏千家普及に尽力している父の背中を見て育った千玄室さん。

しかし戦争は千玄室さんをも大きな波に飲み込みます。

同志社大学に通っていた20歳(1943年)の時に学徒出陣で第日本帝国海軍に入隊。

1945年には特別攻撃隊(特攻隊)に自ら志願したのです。

「死」というものの本質が分かっていなかった年齢とはいえ、仲間たちが次々と出撃して命を落としていくのを見送り、そのまま終戦を迎えた千玄室さんは、自分の命の意義というものを見つめ直すようになったのです。

1964年、父の死去により「千利休居士15代裏千家今日庵家元宗室」を襲名。

語学が堪能だった妻の登三子さんと共に、海外へ向けて、茶道を始めとした日本文化の普及活動に尽力しました。

妻と共に考えた「一盌(わん)からピースフルネスを」というポリシーを掲げ、来日されたエリザベス女王とフィリップ殿下、シラク元大統領、メルケル元首相といった要人に献茶されたり、ご夫妻で海外を訪問してお点前をしたりしています。

バチカンを訪問しローマ教皇庁で講演とお茶のデモンストレーションを披露したこともありました。

そういった貢献に対し、藍綬褒章、紫綬褒章、文化勲章、内閣総理大臣顕彰などが授章されていますよ!

100歳を迎えた現在も、背筋はピンと伸び、1時間を超える講演会も立ったままされるほど健康な千玄室さん。

80歳を前に息子さんに家元を譲った時に、「これからはのんびりと自分のお茶を」と思ったそうですが、さらに活動の幅が広がり、休む暇もなさそうです(笑)

これからも、茶の湯を通じた世界平和活動をされていかれるお姿を拝見し続けたいものですね!

これほど活躍されている千玄室さんですから、年収はどれくらかなと思いましたが、公開はされていません。

ただ、日本での茶道人口で一番多いのが裏千家だと言われていますので、それをまとめる家元だった方ですから、私たちの想像をはるかに超えるものなのではないでしょうか。

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千玄室に妻や息子はいる?

 

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千玄室さんは、1955年に登三子さんと結婚されています。

出会いはお見合いでした。

千玄室さんが30歳を迎える頃、周囲から「そろそろ…」と声が上がり、江戸時代から続いた近江の豪商の家系で、東京で繊維の総合商社をしていた塚本家の三女・登三子さんとお見合いをすることになったのです。

お見合い写真の自然な笑顔に心惹かれた千玄室さん。

実際に会ってすぐ心を決めたのでした。

実際に会った登三子は清楚(せいそ)な印象で、話してみると頭の回転が速くインテリジェンスを感じる女性でした。私はすぐに「この人だ」と心の中で決めていました。

引用元:https://www.sankei.com

登三子さんは、東京で「アテネ・フランセ」というフランス語の語学学校に通っていた才女でした。育ちの良さと知性を併せ持った女性だったのですね。

しかし登三子さんはといえば、実はあまり乗り気ではなかったのです!

フランス文学を愛し、フランス留学を希望してフランス語の猛勉強中だった登三子さんとその家族は、京都の、しかも裏千家のお家元の長男に嫁ぐなど、もってのほかだと思っていたのです。

しかし、千玄室さんと登三子さんは交際をし、千玄室さんが求婚。フランス語の勉強を続けたいという登三子さんの希望をのんで、登三子さん25歳の時に結婚に至ったのです。

お子さんは、1956年に長男の政之さん(現・16代千宗室)、1958年に次男の政和さん(伊住政和)が誕生されています。

結婚後には裏千家家元の妻として国際茶道文化協会会長や裏千家学園長を務めていましたが、フランス語はもちろん英語も堪能だった登三子さんは、家元の「民間外交」にも貢献。

千玄室さんは頻繁に海外へ行き、茶道や古美術などの日本文化を広める活動を個人的にしていたのですが、登三子さんはそれに同行し、常に千玄室さんを陰に日向に支えていたのです。

フランスの元大統領であるシラク氏とは、パリ市長だった時から親交があり、来日されると裏千家の今日庵に立ち寄ってご夫妻と日本文化などについて語らうことを楽しみにされていたようです。

また、登三子さんは「日本で一番着物が似合う女性」と呼ばれるほどの「伝説の女性」でした。

参照:https://www.pinterest.jp

海外の方と接する時は常にお着物で、控えめながらどの国の方とも打ち解けるお人柄で、国際ソロプチミストの日本財団理事長、日仏文化協会理事などもつとめており、1989年には藍綬褒章を授章されています。

しかし、登三子さんは残念ながら1999年に68歳という若さで急死されてしまいました。

それまで二人三脚で歩んできた最愛の妻を亡くした千玄室さんは、その喪失感から世を儚んで自分も登三子さんの元へ行きたいとまで思うようになりました。

しかし、妻を喪ってわずか4年後の2003年、次男の伊住政和さんが44歳という若さでこの世を去りました。

更なる深い悲しみに襲われた千玄室さんでしたが、その直前の2002年に16代を継いだばかりの長男・千宗室さんが、悲しみの中でも家元として奮闘する姿を見て、悲しんでばかりはいられないと気持ちを切り替え、これまで以上に茶の湯の道を世に広める活動に勤しむようになられたようです。

参照:https://pr.kyoto-np.jp

当代家元の千宗室さんは、三笠宮崇仁親王と同妃百合子の第2女子・容子(まさこ)内親王とご結婚されており、2男1女をもうけておられます。

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千玄室の自宅や家系図がすごい…

参照:https://www.urasenke.or.jp

千玄室さんのご自宅は、京都市上京区小川通寺之内上る本法寺前町613番地にある「今日庵」です。

下の航空写真は、南北に接する表千家のお屋敷と裏千家のお屋敷を撮影したものだと思われます。

参照:https://presidenthouse.net

「今日庵」とは厳密にいえばお茶室につけられた名称なのですが、現在は裏千家のお屋敷そのものを指すものとしても使われているようですよ。

参照:https://www.rotary.org

今日庵は一般公開されていないのですが、上の画像は「今日庵」の入り口である「兜門」です。

兜門(かぶともん)をくぐると、手入れの行き届いた松に囲まれた緑豊かな露地が広がり、石畳の小道が続きます。この庭を通れば訪れた人は日常を忘れ、静寂に包まれて茶道の世界へ引き込まれていきます。

引用元:https://www.rotary.org

お茶室へと続く小道だけでも、招かれた客人を非日常の世界へと導くように、微に入り細に入りこまやかな心遣いがされているようですね。

ここで、千利休から脈々と続く裏千家の家系図をご紹介します。こちらは裏千家HPに掲載されているものです。

参照:https://www.urasenke.or.jp

裏千家の家元は襲名すると「宗室」を名乗ります。

それにしても、戦国時代から続く家系図があるなんて、裏千家というのは名門中の名門なのですね!

この家系図をこれからも未来へとつなげることは、私たちにとっても日本文化を守り続けるために必要なことではないでしょうか。

参照:https://www.iza.ne.jp

茶道を通じて世界平和のために尽力し続けている千玄室さんについてご紹介しました。

戦争体験から、自分の命があることに意義を見出し、いくつになっても目的のために活動を続けることこそ、100歳を超えてもお元気な千玄室さんを支えている源なのでしょう。

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